2007年8月:【いのちの箱】

つくり手の会』(愚直に家づくりに取り組んでいる私の大切な全国の仲間8人でつくっている会の名称です。)メンバーである松岡設計さんが建てた住宅が、新潟中越沖地震の激震地にあります。8月3日、その住宅を見学させていただくために、新潟県柏崎市に行ってきました。

高速道路のインターチェンジをおりると屋根や外壁がブルーシートで覆われた家がたくさん見えてきました。煙突の上部が崩れ現在操業停止状態である柏崎市の清掃工場や柏崎原発を遠くに見ながら市街地に入って行くと、道路の両側に倒壊したり傾いたりした家がたくさん見えてきて、次第に『つくり手の会』メンバーの顔色が変わっていくのが解りました。そして車は災害支援・国土交通省と書かれた車両であふれかえっている柏崎市役所の向かいに建つそのお宅に到着しました。

重量木骨の家・SE構法にて建てた3階建ての住宅でした。1階前面はビルトインガレージで全開口となっていました。玄関の横には『調査済み、この建物は使用可能です』と書かれた緑の紙が応急危険度判定士によって貼られていました。家中見せて頂きましたが、内部の壁はもちろんのこと基礎コンクリートにもヒビ一つない完全に無傷な状態でした。お施主さまからも「まったく被害がありませんでした。」という言葉を聞き、一同ホッとしました。

その後、そこから数分歩いたところにある商店街に視察に行きました。そこは目を覆いたくなるような悲惨な状況でした。木造の店舗はほとんど修復不可能なくらい傾いて、応急危険度判定士による『危険、この建物に立ち入ることは危険です』という赤い貼り紙。鉄骨の建物にもかかわらず1階が完全に潰れた状態の店舗。奥の公園では自衛隊からの配給をもらうために並ぶ長蛇の列。そしてその『危険』と判定された家の中で食事をとる人々。道路はいまだ通行止めの状態。その商店街全体が言葉では言い表せないとても重い空気で包まれていました。実際の現場は、新聞やテレビで見るよりはるかに凄まじい状況で、私たちは誰も喋ることも出来ず、無口なまま街を歩いて行きました。私も溢れ出しそうになる涙をこらえるので精一杯でした。

8月3日の新潟日報朝刊の記事によると全壊した住宅は1,069棟あったそうです。阪神淡路大震災は1995年(平成7年)1月17日の午前5時46分に発生しました。その14分後の午前6時にはこの震災で命を落とされた方の約92%にもあたる 2,221人 が亡くなっていたと言うことです。地震の時、揺れている時間は30秒程度ですが、住宅が倒壊にいたるまでの時間はわずか5~10秒です。立っているのが精一杯で、避難どころか祈る事もできない位の時間だそうです。

今回中越沖地震の被災地に立って感じたことは、阪神淡路大震災から12年以上たった現在でもその教訓が生かされていないと言うことです。是非、皆さんに知っていただきたいのは、「地震は人を殺さない」と言うことです。「建物が人を殺している」のです。私はかねてから、「すまいは命の箱である」と言っています。耐震性能が低い住宅は、大切な家族や財産を守るはずの家が、家族を殺してしまうのです。地震で倒れない家であれば、その家に住む家族が、将来に渡り地震で命を落としたり大けがをする確率を1/3は軽減できます。なぜなら多くの人は睡眠や食事、入浴等の為に人生の1/3は家にいるのですから…。さらに夜間は家で寝ている事を考えると更に軽減できると思います。地震の時に『壊れる家』と『壊れない家』、もっとはっきり言ってしまうと『家族の命を守る家』と『家族を殺す家』の境目があるのです。

住み手にとって日常生活ではなかなか実感できない性能だからこそ、家づくりを考えるとき耐震性能にはこだわっていただきたいと思います。地震で倒れない家を創るのは簡単な事です。地盤の調査を行い、基礎を含め建物全体を耐震等級3で設計し、設計の通りに工事が行われたことを第三者機関でチェックしてもらう。極めて簡単な事です。技術を持った工務店なら明るく広々とした快適な住宅を安全に作ることができます。リフォーム行う場合でも、耐震リフォームも同時に行えば十分に安全な家になります。新潟中越沖地震の記憶が薄れる前に地震への備えはできているかどうか、もういちど是非確認して下さい。

最後に、新潟中越沖地震で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げ、そして1日も早い復興をお祈りいたします。